日本武尊
三重県亀山市能褒野は、あの伝説の英雄「日本武尊」が東国を征伐して帰路につく途中、伊勢路へ入って、無念にも病に倒れ、遥かな都を偲びながら薨じたという地である。
私が以前単身赴任をしていたみどり町の寮から、いつも食料とアルコールを調達するスーパー「一号館」の前を通り、約二十分余り行くと、安楽川に架かる能褒野橋に出る。橋からすぐ左前方に大きなこんもりした森が見えてくる。これが、トトロの森じゃなくて、このあたり最大の前方後円墳である「景行天皇皇子日本武尊能褒野墓」である。正式な住所は、三重県亀山市田村町名越安女ヶ坂で宮内庁書陵部畝傍陵墓監区事務所所管となっている。またの名を「白鳥の陵」(しらとりのみささぎ)とも言う。
墳丘は長さ八十九メートル、前方部幅四十三メートル、高さ六・八メートル、後円部径五五メートル、高さ九・四メートルである。墳丘裾末端に円筒埴輪が一部に遺存するが、このような位置の埴輪は天皇陵には見られないと言う。手前は駐車場になっていて、傍には丸々とした鯉が泳ぐ菖蒲池がある。この傍を通って行くと森閑とした林の中に能褒野神社がある。丸石を敷き詰めた広い石段を登って行くと、大正十四年建立の大鳥居がある。ここをくぐると、左手に「日本武尊御陵墓・能褒野神社」の石碑が見え、少し先に「左日本武尊御墓参道」の碑がある。神社への参道は、さらに先の右手にあり、小砂利を敷き詰めた道が林の奥へと伸びている。木立は幹が透けていて暗い林ではないが、幾分林の中はひんやりとした感じがする。参道の奥には瓦葺き屋根の小さな社殿がある。右手は、社務所と亀山市警察署警察官詰所になっている。ここで、お賽銭を投げ、記帳をした。
日本武尊が能褒野で薨じたことは「古事記」も「日本書紀」も一致して伝えるところであり、約一三〇〇年前に作られた「古事記」には次のような件がある。 {景行天皇の四十年、父の命を受けられた日本武尊は西の熊襲(九州南部)を滅ぼしたのち、東の蝦夷(奥州以北)征伐を命ぜられる。尊は、伊勢神宮に参拝して、斎官である叔母の倭比売命(やまとひめ)から天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)を賜り、その剣を振るって幾多の苦難の末、東国を平定して帰途につくが、美濃の伊吹山で山の神に妨げられ、瘴気にあてられたしまった。故郷の大和へ帰ろうと病をおして杖にすがりながら尾津前(多度町)を経て、やっとの思いで御館(四日市市西坂町=旧三重村)にたどり着かれ、「わが足三重の勾の如くして、いと疲れたり。」(わたしの足は、三重ねに曲げた餅のようにはれ曲がりひどく疲れてしまった。)と嘆かれた。これが「三重」の地名の由来だそうだ。そして、やっと能褒野にたどりつかれたが、一歩も歩けなくなり、鈴鹿の山に立ち昇る雲を見て「愛しけやし 吾家の方よ 雲居起来も」と大和の国を偲んで亡くなられたという。御年三十才であった。
報せが届くと、尊の后や御子たちが来て、嘆きながら墓を築いた。すると、その墓から一羽の白鳥が飛び出した。后と御子たちはその白鳥の後を追って、大和の琴弾原と河内の古市と、白鳥のとどまった所二箇所に墓を築いたが、白鳥は最後に蒼空の彼方へ翔け上がってしまったと言う。}
この立ち止まった所が、琴弾原白鳥陵(奈良県卸所市)、旧市白鳥陵(大阪府羽曳野市古市)となっている。両市と亀山市はこの「白鳥伝説」に因んで交流事業を行っている。今年(1999年)は、六月六日に亀山市で行い、私もボランティアで参加した。そして、この夜、私は大白鳥に乗って下野の国へと旅立つ夢を見たのである。
「遥かなる 下野国の 夏空に 飛んで行けやし 大白智鳥」
参道から細い道を下って右手へカーブしながら行くと、王塚また丁子塚と呼ばれてきた能褒野墓の前に出る。石段を登り詰めた所が墓であるが、域内には入れないように柵がしてある。記紀の伝承によれば、棺の中には尊の着衣だけが残っていたそうだ。
実はこの古墳が能褒野墓と認定されたのは、明治十二年のことで、それまでは付近に三箇所の伝承地があって、本居宣長や平田篤胤は鈴鹿市加佐登(能褒野墓から約四キロメートル北西・井田川駅の一つ名古屋より)の鵯塚または白鳥塚と呼ばれている古墳を能褒野墓と考えていたようである。
日本武尊は、皇太子として天位を継ぎ給うべきであったが、征東凱旋の途上薨去せられて、その実現を見なかったが、尊の御子、足仲彦尊(タラシナカツヒコ)が成務天皇崩御の後を受けて、仲哀天皇として天位に即せられたのである。
ここに、景行天皇の御遺志の実現を見たのである。
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